“役行者”が開いた修験の地・伊豆山(走湯山)と“遠野市・伊豆神社”。
修験者の祖“役行者(えんのぎょうじゃ)”は、神の置き換え企む時の天皇(おそらく持統天皇)から、“瀬織津姫”護るために封印したと言われています。
その時、“役行者”の元にあった多くの修験者が“瀬織津姫”護るために手助けをしたことでしょう。
“伊豆神社”の由緒書には、
「大同年間(806~809)早池峰山を開山した四角藤蔵(後に姓を始閣と改めた)が、来内権現の霊感を得て故郷の来内村に戻り、自家の裏に一草堂を建てて朝夕これを崇拝したとのことである」とあります。
“役行者”と早池峰山を開山した四角藤蔵との間に、どんな関わりがあったのか?、なぜ“伊豆神社”という遠野郷には縁のない社名なのか?など疑問に思っていました。
その疑問も、「エミシの国の女神」を読み進めるうちその関わりが少し見えてきたように思います。
「エミシの国の女神」と「伊豆神社由緒書」より要点を纏めてみます。
その1、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると699年、役行者は呪術によって人心を惑わすということで、伊豆島にに配流された。(エミシの国の女神より)
その2、文武天皇3年(699年)修験道の開祖と仰がれる役小角(役行者)が、現在の静岡県熱海市にある伊豆山(走湯山)に堂を建立し、以後は修験道場として隆盛した。(ウィキペディアより)
3、「遠野の四角藤蔵は、その伊豆=走湯権現を早池峰山開山の里宮の名とした。この話を聞いた伊豆走湯関係の修験者が、はるばる此の地に来て権現の由来を基に獅子頭を御神体として奉ったものである。
故に伊豆大権現と称され、千二百 年以上にわたり広く信仰を得て来たものなり。明治維新後に伊豆神社と改めて現在に至っ ている。」(伊豆神社由緒書より)
これらの記述を繋ぎあわせてみると見えてくるものがあります。
四角藤蔵が伊豆より護り伝えたのが、“瀬織津姫命”だった。
・“役行者”が開いた修験道の場伊豆山(走湯山)で、後に遠野の四角藤蔵が修行する機会を得、遠野郷に戻り早池峰山開山の里宮の名とした。
・その里宮に祀ったのが“役行者”により護り隠された“瀬織津姫”だった。
・その縁で伊豆走湯関係の修験者が此の地に来て獅子頭を御神体として奉り今日に伝えられたと。
・そして修験者が背負った「笈(おい)」の中の持仏“不動明王”とともに、全国各地に伝え隠し祀ったのでのではなかったか、と思うのです。
699年から1300年以上の年月を超える“瀬織津姫”と“伊豆神社”の長い物語を思い、瀬織津姫を祀る神社の多くに滝があり、不動明王が祀られている事の意味が自分なりにわかり、思わず長息してしまいました。
今までにないほど“瀬織津姫”が注目されるようになったのは、かつて封印された“瀬織津姫命”が“饒速日命”とともに蘇り、世界を浄化すため共にお働きになっているからではないでしょうか。